「先生、ただ今戻りました」

執筆者
松井 稔幸
留学先
Broad Institute of MIT and Harvard(アメリカ)

T君:「MITって大学がすごいらしいで」
K君:「へ~~、俺はマサチューセッツ工科大学ってのが凄いって聞いた」
T君:「え、だからMITやろ?」

今でもはっきりと覚えている、高校時代の休み時間の会話である。ご存知の通り、MITとはマサチューセッツ工科大学の略称であり同じ大学のことである。当時の私は両方の名前を知ってはいたものの、異なる2つの大学が存在していると誤解しており、K君と同じような認識だったのを今でもよく覚えている。本稿では、10代の頃はこのようないいかげんなイメージを持ち合わせていただけの人物が、実際にアメリカに留学し日本の製薬会社に職を得て帰国した経緯を記す。
高校卒業後は日本の大学に進学し、大学院博士後期課程(以降は単に博士課程と記す)までを日本で過ごした。本当のところ、修士課程への進学時には博士課程からはアメリカに留学したいと考えていたのだが、私は修士課程から工学系から生物系へと専攻を変えたので、日々の研究をこなしていくのに必死で、気が付けば修士課程が終わっていたという状況であった。
それでは本当に留学を決意したのはいつかと言うと、博士課程の中盤あたりだったと記憶している。その後論文の投稿準備を始めた頃に、留学先の研究室に受け入れ可能かどうか問い合わせを始めた。私の博士論文はエピジェネティクスに関するもので、ポスドク先もエピジェネティクスに関連するラボを探しつつ、できれば学生の頃とは少し違うテーマを扱ってみたいと考えていた。特に、私が留学先の選び方として一番意識したことは、そこでしか学べない技術、研究材料、アイデアを持っているかである。日本に似たような研究室があるのなら、そのようなところにはわざわざ行く意味がないと考えていたからだ。さらに、私は英会話が頭に「ど」が三つ付くほどのど下手だったので(今でも、「ど」が三つから一つに減った程度であるが)、日本人が一人もいないようなところに行き、少しでも英会話力を向上させたいと思っていた。このような考えの下、何人かのPIと面談をした結果、次世代シーケンサー(NGS)やHTS(high throughput screening)を利用し興味深い論文を次々に出していた、Broad Institute of MIT and Harvardの Aviv Regev博士の研究室に留学することになった。
その後、建設中のスカイツリーを眺めながら成田空港に向かい、ボストンへと出発した。到着後一カ月ほどは、アパートの契約、銀行口座の開設、車の購入やらでたいへんだった。日本語が一切通じない環境で、このような手続きをするのは人生で初めての事であったし、今思うとよく深刻なトラブル等なく全ての手続きを終えられたものだと思う。下手をすると取り返しのつかない事態に陥る可能性もあるので、誰か頼れる人がいるなら頼った方が無難かもしれない。
肝心の仕事の方はボスが非常に丁寧な方だったこともあり、そこまでアメリカと日本とのギャップは感じなかった。アメリカ人は周りへの気遣いがないというようなイメージを持つ方もいらっしゃるだろうが、私が留学した研究室ではそのようなことはなかった。実際、そういう人間がいないこともなかったが、日本とそれほど変わらないように思う。
日本と大きく違ったのは人材と実験器具の豊富さである。特に、バイオインフォマティクスに関しては世界でも有数の研究機関だったと思う。また、私の留学中にちょうどCRISPRというゲノム編集技術が発見、開発されて、それを間近で見られたのはたいへん貴重な体験だったと思う。以上に加えて、幸運にも個性あふれるユニークな日本人が集う勉強会に参加させてもらい、大きな刺激となった。
そのなかで自分に一番大きな影響を与えたのは、日本の製薬会社から来られていた方々との出会いである。私は学生の頃、最先端の研究はアカデミアで行われており、企業の研究はただそれを製品開発に結びつけているだけで、誰にでもできるものと考えていた。(ある程度は事実なのかもしれないが)ところが、少なくとも私がボストンでお会いした製薬会社の研究員の方々は、アカデミアの研究者と同等以上の熱意と信念を持ち、基礎研究の結果を本気で創薬に結びつけようと努力している、素晴らしい研究者ばかりだった。このような研究者の方々と出会いを経て、初めて民間企業への就職を考えだした。
もちろん、すぐに民間企業一本にしぼったわけではなかった。日本の大学や研究機関に応募することも考え、知人に日本の状態などを伺った。しかしながら、私のような普通の研究者は足元にも及ばないほど優秀な先輩方が、PIではなく任期制の助教として帰国しているのを見るのにつけて、徐々に日本のアカデミアのポジションに魅力を感じなくなっていった。逆に、製薬会社の方からはNGS、HTS、エピジェネティクスの経験は非常に高い評価をいただき、いつの間にやら正式にポジションさえもらえれば帰国しようと決意していた。
幸運にもボストンには毎年冬に、製薬企業が募集に来てくださるジョブフェアがあり、気軽に応募することができ、私もそのときに面接を受けた。企業の面接と言うと非常に面倒な書類書きと、理不尽なほどの圧迫面接を受ける必要があると想像していたのだが、びっくりするほど温和な面接で、ほとんどただの雑談をしただけだった。日本の研究所で面接を受ける際にも、往復代の交通費と滞在費を支給していただいた。面接の雰囲気、提示していただいた待遇に一切不満がなく、断る理由がひとつもなかったので、内定受諾書にすぐに署名をし、正式に帰国が決まった。
製薬会社に希望が固まってから帰国までに困ったことと言えば、アメリカで受ける必要があった雇用前健康診断ぐらいである。(日本とアメリカでは受けるべき項目にかなりの違いがあるらしく、かなり苦労した)引越しの業者も会社の方で手配していただき、料金もカバーされた。社宅を決める際にも会社経由で不動産業者からの斡旋があり、生まれて初めて住むことになった関東での暮らしもスムーズに始めることができた。
はっきり言って、ポスドクでこれほどの高待遇を受けるのは日本では民間企業以外では無理だろうと思う。給料はもちろんのこと、福利厚生を含めた全ての待遇について私は大事だと考えているので、たとえ金になる研究にしか原則として投資してもらえない環境でも最後は全く迷わなかった。なぜか日本のアカデミアには給料を気にするなど研究者としてあってはならないような風潮があるような気がするが、アメリカの研究者はアカデミアでもいくらでも給料の引き上げを要求している。私のような考えの持ち主は日本では異端者扱いされるのかもしれないが、自分のお金でアメリカから面接を受けに行かなければならない日本のアカデミアの方が異常であると私は思う。しかも本気で採用を考えてくれているのならまだしも、端から落とす気で面接に呼ぶふざけた大学もあると聞いた。これから帰国先を探す人は十分注意されたほうがよいだろう。
以上、留学中の就職活動に重点を置いて私の留学体験談を書かせていただいたが、民間企業を含めて帰国先を探しても苦労している人は多い。私が幸運にもあまり苦労せずに見つけることができたのはいくつかの理由がある。ひとつは私の中に基礎研究といえども、究極的には人類の役に立つ研究をしなければならないという考え方があり、私の専門分野も比較的、実用に向いている傾向があるように思う。これまでに扱ったことがある生物種が、酵母、線虫、大腸菌という感じではおそらく製薬会社への就職は難しかっただろう。もうひとつの理由はやはり製薬会社の方々と積極的にコンタクトをとっていたことである。彼らの助言は本当に役立つものばかりであった。
就職先を見つけて帰国できたことはたいへん喜ばしいことであるが、私にとって留学して一番よかったと思うことは、数々の個性あふれる人々との出会いである。最先端の技術を学んできたといっても、所詮数年もすれば廃れるものであるが、彼らとの出会いは一生の財産となった。最後に、アメリカでの全ての出会いに感謝すると共に、これから留学しようとている冒険者たちの幸運を祈る。

2015/11/19

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編集後記
アカデミアからのご寄稿が多い中で,松井さんの企業からの視点は大変重要だと思います.具体的な体験談も貴重なものだと思いました.ポスドクになった時に将来的に自分が何をやりたいかについて色々な選択肢を持っていることは大事ですね.創薬を患者に直接結び付けることができるという企業の魅力というのもあると思います.
編集者
本間 耕平
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