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日本人研究者インタビュー企画

ケンタッキー大学 河島友和さん

UJAキャリアディベロップメント部

石田 光南


 UJAインタビュー企画は、海外で研究を行う日本人をお招きし、海外体験にまつわるさまざまな話を伺っています。


 今回は、ケンタッキー大学植物土壌科学科でAssistant Professorを務める河島友和さんです。


 河島さんは、2002年に筑波大学を卒業後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて2009年に博士号を取得しました。河島さんは学部生の頃から一貫して「植物の生殖」に興味を持ち、近年では細胞骨格の1つである「アクチン繊維」が制御している受精のダイナミクスや、ダイズを使った食糧増産に関する研究もされています。大学院・ポスドク・主任研究員(PI)と長きに渡って日本国外で過ごされた河島さんから、留学の楽しさや大変さ、海外での家族の生活事情などをお話しいただきましたので、その一部を本記事で紹介します。


UCLAでの博士課程時代



Q. なぜUCLAヘの進学を決めたのですか?


大学生の頃は教員になろうと思って教員免許まで取ったのですが、卒業研究をしていたら研究が面白くなってしまいました。それで研究の道に進むことにしたのですが、当時は全然英語ができませんでした。海外の大学院に行くことが運命のように感じられ、そう思い始めたのが4年生の7月上旬で、そこから出願準備を始めました。それ以外の選択肢は全く考えませんでした。研究者になるために英語のトレーニングが必要と知り、夏は筑波から東京まで通い、塾でGREとTOEFLの攻略に全てをかけました。出願先については筑波大学の先生と相談し、植物の胚発生を分子レベルで研究できるラボがあるUCLA、UC Berkeley、UC Davisの3校に決め、UC DavisとUCLAに合格し、UCLAへの進学を決めました。


Q. UCLAでの大学院生活は順調でしたか?


 入って驚いたのですが、90人くらいいる同期のうち、最初の自己紹介で「植物を研究したい」

と言ったのは僕だけでした。UCLAは3学期制で、1年めには10週ごとにラボをローテーションします。その後、2年に上がるときにマッチングをして、ボスと希望が合えばそのラボに所属して博士研究を始めます。1年めから毎日実験するのですが、授業についていくのが大変で、1年めの実験はあまり覚えてないですね...。


 私には最初から行きたいラボがあったのですが、ローテーションで新進気鋭の若手の先生のラボを経験し、非常に心が揺れました。しかし、まだまだ自分で計画して進められる実験も少なく、指導してもらわなければ研究できない弱さがあったので、当初の希望通りスパルタで有名な大御所の先生を選びました。


 そのラボでは、私の前の学生は博士号取得に9年、私は7年かかりました。アメリカの大学院では学生が何年も残ってしまわないよう、学科から指導教員へプレッシャーがかかります。私の場合も「あいつには一体何が起こっているんだ」と学科から問い合わせがあったようですが、ボスは突っぱねていました。もちろん、卒業に時間のかかるラボであることは知っていたのでネガティブな感情はありませんが、今思えば自分で提案してもっといろんなことができたように思います。


博士課程後のキャリア


Q. 学位取得後はどのような経緯でシンガポール、オーストリアで研究をされたのですか?


 博士号を取得したあと半年間はそのまま研究室でポスドク(博士研究員)として雇用され、その後、どこで研究員をしようかと考えた時、2つの候補がありました。近くのUC Berkeleyとシンガポールの研究所です。カリフォルニアは生活費が高いので、提示されていた給与の1/3が家賃に消え、経済的な難しさが予想されました。一方、シンガポールでは、通常の給与に加えてアメリカで学位を取っていたため上乗せの給与という特典がありました。さらに家賃補助も出るため、給与の1/10程度で家賃が払える状況でした。


 博士課程4年目に結婚をし、学生のうちに1人めの子供が生まれていたので、生活のことも考えてシンガポールで働くことに決めました。実はシンガポールのボスは学会で1度会ったことのある先生で、私が出した論文をみて「そろそろ卒業するんじゃないか」と連絡をくれました。


 シンガポールでの研究生活4年めに、ボスがオーストリアのウィーンの研究機関への異動を決めたので一緒に行きました。その後、論文も出てAssistantProfessorに応募する段階になりました。漠然とウィーンに残りたい気持ちはありましたが、ウィーンの研究所では内部昇進なかったこと、また、ドイツ語の必要性やコネクションが少ないことから、ウィーンに残る道を断念しました。


 そんなとき大学院生時代のボスから、「お前のための公募がケンタッキー大学に出ている!」と連絡をもらいました。しかし、同大学には知り合いもいないし、南部の環境は経験がないからとボスに断りを入れました。そしたら「お前はバカか、このご時世に選んでいる暇があったらアプライしろ」と言われて、「まぁ、アプライして落ちるのならボスの顔も立つか」と思って出願しました。


 すると面接に招待され、行ってみたらころっとやられてしまいました。ケンタッキー大学の方々がみなすごく優しくしてくれるのです。これまで働いていたのは研究所で雰囲気が厳しかったので、ケンタッキー大学のフレンドリーな環境にカルチャーショックを受けました。



 実際に内定をいただいて、承諾を決めたのは2つの理由からです。1つは自分の好きな研究ができる環境があったことです。必要な顕微鏡を好きに使うことができ、また実験機材が全て同じ階にあったことが大きかったですね。2つめは家族にとって住みやすかったことです。ケンタッキー大学のあるレキシントン市の隣のジョージタウン市では、トヨタの北米工場やウイスキー関連馬関連の仕事を務める日、馬関連の仕事を務める日、本人が多く生活していました。日本人コミュニティの大きさはやはり家族にとっても支えになっています。


家族との海外生活


Q. 家族と海外で生活する上でどのような点に気をつけていますか?


 大学院生の時に結婚し、妻は結婚を機に日本の会社を辞めて渡米しました。私は、それまでラボの友人とフラットシェアをしていましたが、到底1人では家賃を払えないので、結婚後はそこに妻が加わる形になりました。しかし、ルームメイトはガールフレンドの家にほぼ入り浸りになり、フラットを自由に使わせてもらうことができました。子供が産まれると、私たちの母が子育ての手伝いに来ることもありましたが、フラットを自由に使わせてもらったおかげで協力して子育てができました。また、子供が産まれるとボスが給料を上げてくれました。こういうサポートはありがたかったですね。


 ケンタッキーへの異動に家族の存在が大きく影響したと言いましたが、シンガポールへ移るときも家族のことを考えていました。収入面でゆとりがあるので生活が楽ですし、日本との時差も少ないので過ごしやすくなります。その後、ウイーン、アメリカへと異動しましたが、できる限り家族と仕事が両立するような方法を考えています。


インタビューを終えて


河島さんのこれまでの道のりを振り返ると、「えい」と思い切って飛び込んでみる行動力がチャンスを掴むのに役立っているように感じます。本記事を読んでくださった方の中にも、海外大学院への進学を希望する方も少なくないと思います。河島さんでさえGREやTOEFLに苦労した時代があったことを知ると、励みになることでしょう。UJAは、今後も海外で活躍する方々へのインタビューを行います。次号をお楽しみに!


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